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副題に「国家的非常時における地域行政の課題」とあるとおり、たまたまあの日石巻に居合わせた農水官僚が、その後、目の当たりにした石巻市役所の対応から、今回の震災対応における課題を記した本。

p26
「市職員は、水没した市役所の中で、必死にできることを模索したが、外部との通信手段が限られ、往来がほぼできない状況の中では、情報は入ってきても、「ほとんど何もでいなかった」と複数の関係者が認めている。」

「市防災対策課にこうした無線システムが集中していたことは、その後、あらゆる連絡が防災対策課に集中し、情報の伝達のつまりや、伝達ミスが起きることともなった」

p27 避難者1300人の石巻高校でのこと
「市職員6名がつめていたが、避難者のための飲料水の運搬など、住民やボランティアに頼める仕事まで市職員が担っており、手が回らない状況になっていた。市職員は、「被災者にはお願いできない」という」

p38 3/16
「市災害対策本部を傍聴したが、肝心の議論がなされていないように感じた。」

p41 3/16
「・・・冷凍された牛肉などが届いているものの、炊き出しが行われていないため、お湯がなく、こうした食品を消費でいない状況が続いており、食料供給が安定しない一因となっていた」

市職員や避難所運営にかかわる学校関係者の疲労が深刻になる中で、自分たちでできることは自分たちでやる仕組みを作る必要があったが、「目先の対応で手一杯で、そうした仕組みを一緒につくっていこうという状況ではなかった」

p51 3/18
門脇中カップヌードル事件
=安住議員が大震災以後、避難者が温かい食事をとっていないことを考え、カップヌードルをこの日食べれるよう自衛隊などを使って段取りしたが、避難所を運営している学校関係者には急な話だったためことごとく断られる=準備していた自衛隊にもてっしゅうしてもらう。

p65 がれき撤去に関する縦割りの弊害
市道を中心とする道路や公園などにあるガレキ=市建設部
瓦礫処理全体=市生活環境部

p136-137 4/6
災害救助法に基づく避難所の供与等の事務について、3月下旬に宮城県は石巻市に委任。
⇒しかし、市長をふくむ市の幹部はこの委任について知らず。

p149-150
「医療については、そもそも怪我人などが少なく、現状は慢性の患者への対応が中心になっている。そこは介護の領域との境界であり、そこのマンパワーが不足している」

p158 劣悪な避難所環境(医師・看護師からの告発)
「避難所の運営は「保護課」、福祉は「介護保険課」、建物管理は「教育委員会」、トイレは「生活環境部」、食料は「産業部」など、市の体制は縦割りが過ぎる。・・・略・・・単純なことでも意思決定が遅すぎる」

p179 古い情報で混乱も
「東京や仙台から比較的短期で訪ねてきた人が、・・・略・・・ネットなどで情報発信し、それが必ずしも最新の状況を反映してないということがママあるようだ」

p198
4月20日より復旧していた地元の弁当業者に委託し、避難者への弁当配布が始まる。

p212
「大震災発生から一カ月以上が経過し、市が判断しなければ前に進めない事案が多くなってきた」

「私自身振り返ってみると、…略…初動期の1週間、2週間の目の回るような忙しさを経て、1か月を過ぎたあたりから、緊急時対応という業務量は落ちていった」

売れない炊き上げごはん

関連リンク
http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/review/pdf/primaffreview2012-50-6.pdf

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国際協力NGOによる東日本大震災での支援活動について書いたブックレット。

ADRAジャパンの事例が特に重要。

p3-4
今回の震災で初めて民間団体が自衛隊や消防などの政府機関と協力して災害救援をした。

きっかけは9・1訓練
=静岡県で行われた防災訓練。
それ以前から「東海地震等に備えた災害ボランティアネットワーク委員会」の委員等になっていた。
p5
「この訓練は、民間人が自衛隊ヘリコプターに乗り込み、政府や自治体が行う訓練に参加するという日本で初めての試みとなった」

⇒内閣府の防災担当者らと人間関係ができる
⇒震災直後、そのとき知り合った国の担当者と、福島県庁で再会する。
⇒もう一人の担当者が宮城県庁で対応していると紹介され、宮城県庁へ。
⇒その担当者の依頼で対策本部の会議に出席。⇒被害の状況が詳しくわかる。
⇒避難所の情報収集とボランティアの情報について宮城県の関係者と内閣府現地対策本部をつなげる役割を依頼される。
⇒自衛隊のヘリに乗って石巻の沿岸部の避難所等を調査。
その後、この役割をJPFに引き継ぐ。

「政府被害地域・避難所現地調査チーム」とともに各自治体を回る中で山元町役場の現状を知る。
⇒内閣府の紹介という形で山元町の支援(特に役場職員のための炊き出し支援)に入ることになる。
↑内閣府の紹介がなければ町はアドラのことを知らなかったためこうした支援ができなかった可能性が高い。


【関連リンク】
ADRAジャパンの活動ブログ:http://blog.canpan.info/adrajapan/category_28/10

出版元HP:http://www.waseda-up.co.jp/cat649/post-647.html

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陸前高田市の市長による本。
市長だからこその話がさまざま書かれている。

p83 国に頼んでガソリンを届けてもらい、自衛隊に給油してもらおうとしたときに国の職員が言った言葉。
「このガソリンは他の省庁から出ているものだから、自衛隊が給油したらダメだ。運ぶところまでは認めるけど、自衛隊にノズルを触らせてはいけない!」

p85-86
「陸前高田には、菅直人首相をはじめとして、多くの政治家たちが視察にやってきてくれました。
・・・略・・・
しかし、明らかに「点数稼ぎ」や「物見遊山」でやってくる人も少なくありません。
・・・略・・・
玄関へと向かうと、そこにはとある国会議員がいました。
「なんでしょうか」
「市長、ここで写真を撮ろう」
その方は被害常用や復興の進捗などひとことも聞かず、市役所の看板が入るところで私とのツーショット写真を撮ると、そのまま、まっすぐ帰ってしまいました。」

「もっと酷い方もいました。
 ・・・略・・・多くの犠牲者をだし、今では廃墟状態になっている旧市庁舎に来ると「ここで写真を撮りたい」と言い出し、・・・略・・・Vサインをしながら写真に収まっているではありませんか!」

p116-117
外から来る様々な提言に対して
「あと何年か経って「陸前高田が完全に復興した」と聞いて、久々に里帰りをしてくれた時に、そこになんとも異質な超高層ビルなどが建っていたら、いったいどのように感じるでしょうか」

p149
「このあいだも総務省の方が大型バスで10数名を引き連れてやってきたんですけど、最初に訪問したのは避難所でもなければ市役所でもない。郵便局なんですよ。そこで郵便局長と握手をしている写真を撮ってから、ようやく市役所にやってきた」

【関連記事:リンク】
縦割り行政が被災地の復興を阻んでいる/戸羽太・陸前高田市長



「泣くのは後でいい」岩手県陸前高田市長、戸羽太さん
2011.4.10 21:01
 2月6日の市長選で民主の推薦候補を破って初当選した。中選挙区時代は同党の小沢一郎元代表の選挙区。「小沢王国」の強固な地盤に風穴を空けた。

 それから34日目の3月11日午後2時46分。市長室で執務中に激しい揺れに襲われ、127人の職員とともに一部4階建て市役所の3階部分の屋上に避難した。津波は足元近くに迫り、眼下では人や家、漁船、車をのみ込む濁流が渦巻いた。

 真っ暗な4階の部屋で職員と夜を明かした翌日。「自分らでやるしかない」と腹を決め、被災を免れた市立学校給食センターで災害対策本部を立ち上げた。

 人口2万3千人のうち死亡、行方不明がともに1千人以上。「どこかで生きていてくれ」-。そう願っていた妻の久美さんも、39歳の誕生日だった今月5日、遺体で見つかった。

 知人の建設業の社長から「息子がトラックで高台に向かう途中、奥さんを見かけたって。乗せてれば…と悔やんでいる」と打ち明けられ、「息子さん、無事でよかったなあ」と答えた。「行方不明の職員、家族を失った職員がたくさんいる。泣くのは後でいい」。今春、長男は中学校、次男は小学5年に進んだ。「親として妻の分も生きる」

 景勝地・高田松原では浜辺にあった数万本の松のうち1本だけが残った。市はこれをイラスト化した「高田松原の希望」というワッペンを作った。「生き残った一人一人が希望の松になる」。そんな市長メッセージを込めた。(藤原保雄)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110410/dst11041021020042-n1.htm

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トップインタビュー【25】戸羽太・岩手県陸前高田市長

◇震災からあっという間の1年

 東日本大震災大津波で市中心部が壊滅的な被害を受け、1700人以上の犠牲者を出した陸前高田市(2万1000人)。市庁舎も全壊し、現在は仮設庁舎で業務が行われている。最愛の妻を亡くしながらも市のために先頭に立って取り組んできた戸羽太市長(とば・ふとし=47)に復旧・復興への思いを聞いた。

 ―震災から1年が経過した。1年を振り返って。

 当初どん底からのスタートだったが、あっという間の1年だった。もう少し進めるかなと思ったがなかなか思うようにいかなかった。一方で日本中、世界中の皆さんが応援してくれて、われわれも乗り越えられた。今は被災者の「頑張ろう」の気持ちをどう継続させていくか。復興の鎚音(つちおと)がしている、目に見える形で何かを示すことが大事だと思う。

 ―復旧・復興への取り組みの中での教訓は。

 復興計画は地方分権の考え方で市で策定した。市は15メートルの防潮堤を想定しその中で街づくりの計画を立てていたが、結局県側から12.5メートルを提示され修正することになった。国、県そして市が一堂に会して意見を言い合う会議の場がなかった。3者の連携がとれなかったことがスピード感が出なかった一番大きな問題だ。

 ―2012年度当初予算が660億円と過去最高。最優先で取り組みたい事業は。

 まずは災害公営住宅の建設だ。土地を造成する必要があり時間がかかる事業だ。また仮設住宅があるために校庭が使えない状況をできるだけ早く解消したい。復興計画は8年間だが、すでに1年が経過した。過去1年間を振り返れば、残り7年では目指す3割ほどしか進まないだろう。復興元年のこの1年間でどれくらい進めるかが今後の計画全体のバロメーターになる。市民が復興を肌で感じられるようにしたい。

 ―がれきの広域処理が進んでいない。

 妊婦の方や子どものいる方に不安があるのは当然だが、厳しい安全基準でも「安全」とされるがれきは引き受けてほしい。日本全国では地域によっては被災地のがれきよりも高い放射線量の場所もあるのに、受け入れる側がその地域の放射線量を分からないでいる。互いに情報をオープンにすればいい。またがれき受け入れのための現地調査にかかる費用は国が出して当然ではないか。

 ―市民の交通手段だったJR大船渡線も不通状態が続く。JR側が提示しているバス高速輸送システム(BRT)をどう考えるか。

 鉄道ができるのかできないのか、鉄路の場所によって街づくりの計画が変わってくるのであまり引きずれない問題だ。鉄道の駅名が消えることは街にとっても大きい。被災したことで陸前高田は有名になったが、それを持続させるためには特徴ある街づくりと合わせて最低限の交通手段インフラが必要だ。BRTは暫定的な措置とし、最後は鉄道に戻すと約束してほしい。

 ―国に求めることは。

 ずっと求めていることが「被災者の立場に立って物事を考えて」ということ。国の役人や政治家が何かの基準を決めるのはそこだと思う。自分が被災し家を無くしたという立場に立てば優先順位や求めるものが分かるはずだ。復興庁にはそのようなスタンスを取ってほしい。

 ―どのような陸前高田市にしたいか。

 根本にあるのは「世界に誇れる美しいまちの創造」。景観だけでなく住んでいる人の気持ちが美しく優しい、障害のある方も高齢者も安心して住める、ノーマライゼーションという言葉が必要ないような、どんな人に対しても平等にできる街にできたら魅力だと思う。
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20120330top_interview24_25
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陸前高田市長/戸羽太さん■■■

2011年4月25日

大震災の町から

 「彼だって」と、横に立つ市職員に目をやる。

 「6歳の息子さんが、1カ月たった今も行方不明なんです。職員も大勢亡くなったんです。そういう時に、自分のことをどうこう言っていられないでしょ」

 岩手県の陸前高田市。海があって、川があって、山があった。農林漁業の町だった。湾に面した平地に中心街が広がっていた。約2キロの砂浜にあった7万本の松林は、名勝地として国の指定を受けていた。

 3月11日。大津波が、すべてをさらった。

 妻の久美さんも、行方がわからなくなった。

 私心と悲しみを押し殺し、職務を全うする市長。ヒロイックな見られ方に、違和感があった。

 「私は市長だからそういうふうに言われますが、みんな、家族を亡くしているんです。それでも、頑張っているんです」

 道を行く一人一人に物語があった。町に立つ一軒一軒に思い出があった。同じく失った者として、傷は痛いほどわかる。彼らを支え、背中を押すのは誰か。考えるまでもなかった。

□■□

 松田町にある母方の祖母の家で生まれ、東京都町田市で育った。週末は小田急線のロマンスカーに乗り、「おばあちゃんち」に行った。親戚に連れられ、酒匂川でアユを釣った。

 陸前高田市は、岩手県議だった父の故・一男さんの故郷だった。同市の民間企業を経て、1995年に市議に初当選。3期連続で務めた後、副市長に選任され、前市長の後継者として今年、市長選に立った。

 小沢一郎氏の地元、民主王国の岩手。小沢氏が推す候補に対し、自民・共産の応援を受けて一騎打ちに臨んだ。投票率が80%を超す熱戦に、約千票差で競り勝った。46歳。描いた壮大な青写真は、愛する町の海と空の鮮やかさだった。

 当選は2月6日。

 そして、33日後。

□■□

 その時、市長室にいた。市庁舎の3階屋上に避難した。足元まで迫る津波に恐怖しながら、巨大な濁流にのまれる町を見ていた。

 助かった職員と一夜を過ごした翌日。集まる情報は、あまりに残酷だった。

 1カ月が経過した11日現在で、死者は1233人、行方不明者は1209人。約2万3千人の人口のうち、1割以上が犠牲になったと思われる。

 避難所に逃げ、流された人も多かった。「想定外」との文脈で繰り返される釈明には意味を感じない。

 「災害は基本的に想定してはいけないものなのだなと。具体的な想定をしすぎると、それが頭にインプットされてしまう。常に最悪の最悪という事態を考えていかないといけない」

 三陸の沿岸部には、「津波てんでんこ」という言い伝えがある。「津波が来たら(人のことは構わず)ばらばらに逃げろという意味ですが、議会で話すと『無責任だ』と怒られる。でも今回の教訓からいえば、言い伝えは正しかった。他の人を助ける気持ちは大事です。ただ、それで若い人が大勢亡くなった事実もある。何が正しいか、何がベストかは、誰にもわからない」

 地震と津波。その難から逃れることは、沿岸部の「永遠の課題だ」と言う。

□■□
 今月5日。久美さんの遺体が、自宅近くの坂の上で見つかった。「ごめんな」と、泣いた。結局、一度も捜しには行けなかった。

 中学1年と小学5年の2人の息子に、妻の状態を話してはいない。「遺体がね、時間がたつと傷んでいるんです。やっぱりお母さんはお母さんのまま、送り出してあげたいなって」

 父として子を思い、夫として妻を思う。当たり前に続くはずだった日常が、途切れてしまった。

 それでも―。

 「何年かかるかわからない。でも、あそこからよく復活したなと、世界中から拍手してもらえるように頑張りたい。今、子どもたちは海が怖いと思うけど、いつかはまた好きになってほしい。ここは、本当にいいところですから」

◆陸前高田市の被災状況 大津波により町の中心部が壊滅的な被害を受けた。一部4階建ての市役所も3階部分まで漬かって機能不全となり、多数の人が死亡・不明となった。10軒あったガソリンスタンドもすべて流された。被災家屋は3600戸、被災人数は人口の約半数の1万547人に及ぶ(11日現在)。

◆とば・ふとし 今年2月の岩手県陸前高田市長選に出馬。東北地方で最も若い市長として当選し、1カ月あまりで東日本大震災を被災。自身の妻も行方不明となる中、公務にあたった。母の実家である松田町で生まれた。現在も親族が神奈川に住む。東京都・町田高卒。46歳。

http://news.kanaloco.jp/serial/article/1104180001/
----------------------

戸羽太氏講演録:http://blogs.yahoo.co.jp/sakuratribune/36608035.html



http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4847065220/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392

【目次】
第1章 あの日、陸前高田市が消えた―ドキュメント3・11 地震、そして津波はいかにして襲ってきたのか?(床が落ちるほどの激しい揺れ襲いくる大津波、決死の屋上避難 ほか)
第2章 被災地が直面した日々―悲しみを乗り越えて 3・11以後の困難な道のり(これが本当の被災地での日々失われた市役所の機能とデータ ほか)
第3章 「ふるさと」は必ずよみがえる!―陸前高田発、ゼロから始める復興プラン(これから作る「新しい陸前高田」これからは「減災」を考えていくべき ほか)
第4章 特別対談 佐藤正久×戸羽太―「被災地を救うリーダー論」(自衛隊も感銘を受けた戸羽市長のリーダーシップ霞ヶ関や永田町と被災地の「埋められぬ距離」 ほか)


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行政から指定された避難所ではない避難所=自主避難所での出来事を書いた本。
自主避難所がどういうふうに自主運営されていたかがわかる。

p25
「地震発生から約31時間。やっと初めての食料が届いた」←消防の人がまわってきて、持ってきてくれた。

p28-29
3日目の夜に会議。⇒役割分担を決める。
班長=明友館の職員、食料調達係、災害復旧係、料理長、反著、副班長

p32-33
避難所での唯一のルール=「ウンコをしたら、水を流す」

「震災から二日目に、・・・水が出ないとトイレが流れないんですよ。だから、みんなウンコの上にウンコをして、トイレットペーパーを使ってもそのまま便器に捨ててるんですよ。それがどんどん溜まっていて。・・・それで、外にはいっぱい泥水が溜まっていたんで、じょうろで汲んできて、トイレを流してみたんです。そしたら、流れたんですよ」

p42
「約半月ほどは男たちによる」瓦礫のなかからの食料調達は続いた」

p58
「震災から七日目の3月17日、それまで不通となっていたドコモの携帯電話が通じるようになったのだ。ソフトバンクとauは、震災直後から時間帯によってはつながったのだが、石巻ではドコモの復旧が遅れていた」

p80
「これが貰えるならあれも欲しいという物欲が湧いて、何が必要な物で、どこからが贅沢品になるのか、というライン引きが難しいんです」

p92
「巨大ボランティアが常駐しているところは、オレたちが入るすきがないんですよ。なんでかっていうと、それが奴らの縄張りだから」

「その避難所に500人いたとすると、そこのボランティアの奴は、500人分集まってないと渡せないってバカなことを言うんですよ」



【本書関連リンク】
石巻明友館HP:http://www.meiyukan.com/

大原俊弘氏の支援活動報告

大原氏のブログ:http://blogs.yahoo.co.jp/toshihiro_ohara/66069129.html

宮城県石巻市を訪問!/ふなひまの体験レポート
http://myfuna.net/reg/press/navi/2011/04/28103423.html

http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4087206262/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392

目次

第1章 自主避難所「明友館」誕生
第2章 「役割」を果たす避難民
第3章 リーダー・千葉恵弘
第4章 支援する避難所
第5章 奇跡の避難所
第6章 明友館に集う人々
第7章 これからの明友館




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石巻赤十字病院の医者である石井正氏の著書。震災発生時からおよそ半年間の詳細な記録。

印象的だったのは、以下の点。

①災害医療の面でも、阪神淡路大震災の経験を踏まえて作られていた想定や体制が、今回の震災には通用しなかったこと=想定外の事態だった。

②それでも、事前の準備・備えがあったからこそ、ここまで対応できたのだということ⇒やっぱり準備は大切ですね。

③ボランティアにも本当にしょうもない奴らがいたということ(噂には聞いていたけど、石井氏の体験を読むと改めてなんなんだと感じたわけです)。



(1) 今回の震災で起こった災害医療の想定外
p21-2  患者の来院の仕方に関する想定外
今回のような規模の地震があったとき石巻赤十字病院は、発災当日の来院患者数を3000人と想定していた。
→実際は99人のみ。←理由:救急隊3隊のうち2隊が被災、救急は14台中6台が流されていた。

2日目(3/12)は急患が殺到=前日の99人から一気に779人が運び込まれる。←全国からの応援の救急車、自衛隊車両、各種ヘリが投入されたため。

3日目(3/13)には1257人の急患が殺到=63機ものヘリが運んできた。

p25-27 想定外の患者内訳
想定=クラッシュ症候群など地震による建物の倒壊が原因の患者が多数運ばれてくるはず
実際=クラッシュ症候群の疑いがある費とは6.1%のみ。低体温26.1%、溺水4.3%、内因性疾患32.2%だった。
「ところが実際に運ばれてきたのは、海水につかったまま一昼夜を過ごして体温が極度に低下した人や、寒さで肺炎を起こした人など、マニュアルで想定していない患者ばかりだった」p27

p27 遺体も病院に運ばれてくる想定外
自衛隊は死亡している人と分かっていても「現場に医師がいないため(法的な)死亡確認ができない」状況だった。

p30 急患が長期間運ばれてくるという想定外
発災後1週間たっても連日200人以上(平常時の3倍近くで推移)の急患が搬送されてきた=石巻赤十字病院だけでは、対応できない数となっていた。⇒東北大学病院にも患者の受け入れを要請


p23
広域災害救急医療情報システム(EMIS)が稼働しなかった。←宮城県は支出削減のため2009年度に脱会していた。



(2) 備えはやっぱり大事
p14 石巻赤十字病院では、発災後の4分後の14:50には災害利用対策本部が立ち上がったそうだが、あれだけの地震であったにもかかわらず「誰にも焦っている様子はなく、「なんだか訓練みたいだな」と思った。」と石井氏は書いている。

p19‐20
発災直後、石巻赤十字と災害時応援協定を結んでいた積水ハウス仙台支店は被災者対応のためのテントを設置し、NTTドコモショップ石巻店は衛星電話と携帯電話を提供してくれた。

p25
ヘリ発着についても事前にリアルな訓練を行っていたため、大きな混乱はなかった。

p51
日本DMATの研修会などを通して災害医療のエキスパートと自然に人間関係ができていた。「このとき築いた人間関係が僕を支えてくれた」

p52
2010年1月に石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協議会を立ち上げていた。

p61-63
2011年2月12日に宮城県知事から「宮城県災害医療コーディネーター」を委嘱された。
「東日本大震災が発生したのは、災害医療コーディネーターを委嘱されてからちょうど1カ月後だった。まさにぎりぎりのタイミングで、最低限の準備が間に合ったというほかない。」


(4) 情報入手の経過
3/12 雄勝町が壊滅し、東松島市や石巻市の南浜雲大打撃を受けていることがわかる。
3/15 北上町や牡鹿町、女川町もほぼ壊滅状況との情報がはいる。
3/16 道路の水が引いたため、石巻市役所まで行き、そこで避難所リストを入手。
    ⇒避難所は約300か所、避難者数は5万人とだけわかる。それぞれの状況については不明。

⇒300か所すべての避難所をローラー調査し、必要な情報を入手(アセスメント)して、救護の優先順位をつけていく「避難所のトリアージ」を自分たちでやる。

3/17~ 避難所アセスメントを開始。
【調査内容】
①避難所の人数とその内訳(高齢者、超高齢者、乳児・幼児の数など)
②有症状者の数(傷病者や慢性疾患を持っている人、インフルエンザなどの急性疾患者、発熱や咳、下痢や嘔吐、呼吸困難など)
③ライフライン状況(飲料水、電機など)
④衛生状態(手洗い用の水の有無、トイレの汲取り状況など)
⑤食糧事情と食事の状態(一人当たり1日にどれくらいの量、数の食事が提供されているか)
⑥毛布や暖房器具などの有無
⑦避難所リーダーの連絡先



(5) その他
マニュアルはリアルでなければならない p63
①災害発生直後の被害状況やライフラインのチェックは「どの部署の」「誰が」「どのような手順で」行うか?
②災害対策本部の指揮命令系統や連絡体制はどうなっているか?
③各部署に所属する職員はどのように動くのか?
④必要な物資はどこに、どのくらい保管して、誰が管理し、どこに配備するのか? など

p69
「この震災と、その後の救護活動を経験して僕自身があらためて認識したことの一つが「情報は向こうからやってこない」ということだった。・・・「HELP」の声が聞こえない、見えないのは、そのこと自体が「HELP」のサインだと捉えるべき」

つづく

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