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陸前高田市の市長による本。
市長だからこその話がさまざま書かれている。

p83 国に頼んでガソリンを届けてもらい、自衛隊に給油してもらおうとしたときに国の職員が言った言葉。
「このガソリンは他の省庁から出ているものだから、自衛隊が給油したらダメだ。運ぶところまでは認めるけど、自衛隊にノズルを触らせてはいけない!」

p85-86
「陸前高田には、菅直人首相をはじめとして、多くの政治家たちが視察にやってきてくれました。
・・・略・・・
しかし、明らかに「点数稼ぎ」や「物見遊山」でやってくる人も少なくありません。
・・・略・・・
玄関へと向かうと、そこにはとある国会議員がいました。
「なんでしょうか」
「市長、ここで写真を撮ろう」
その方は被害常用や復興の進捗などひとことも聞かず、市役所の看板が入るところで私とのツーショット写真を撮ると、そのまま、まっすぐ帰ってしまいました。」

「もっと酷い方もいました。
 ・・・略・・・多くの犠牲者をだし、今では廃墟状態になっている旧市庁舎に来ると「ここで写真を撮りたい」と言い出し、・・・略・・・Vサインをしながら写真に収まっているではありませんか!」

p116-117
外から来る様々な提言に対して
「あと何年か経って「陸前高田が完全に復興した」と聞いて、久々に里帰りをしてくれた時に、そこになんとも異質な超高層ビルなどが建っていたら、いったいどのように感じるでしょうか」

p149
「このあいだも総務省の方が大型バスで10数名を引き連れてやってきたんですけど、最初に訪問したのは避難所でもなければ市役所でもない。郵便局なんですよ。そこで郵便局長と握手をしている写真を撮ってから、ようやく市役所にやってきた」

【関連記事:リンク】
縦割り行政が被災地の復興を阻んでいる/戸羽太・陸前高田市長



「泣くのは後でいい」岩手県陸前高田市長、戸羽太さん
2011.4.10 21:01
 2月6日の市長選で民主の推薦候補を破って初当選した。中選挙区時代は同党の小沢一郎元代表の選挙区。「小沢王国」の強固な地盤に風穴を空けた。

 それから34日目の3月11日午後2時46分。市長室で執務中に激しい揺れに襲われ、127人の職員とともに一部4階建て市役所の3階部分の屋上に避難した。津波は足元近くに迫り、眼下では人や家、漁船、車をのみ込む濁流が渦巻いた。

 真っ暗な4階の部屋で職員と夜を明かした翌日。「自分らでやるしかない」と腹を決め、被災を免れた市立学校給食センターで災害対策本部を立ち上げた。

 人口2万3千人のうち死亡、行方不明がともに1千人以上。「どこかで生きていてくれ」-。そう願っていた妻の久美さんも、39歳の誕生日だった今月5日、遺体で見つかった。

 知人の建設業の社長から「息子がトラックで高台に向かう途中、奥さんを見かけたって。乗せてれば…と悔やんでいる」と打ち明けられ、「息子さん、無事でよかったなあ」と答えた。「行方不明の職員、家族を失った職員がたくさんいる。泣くのは後でいい」。今春、長男は中学校、次男は小学5年に進んだ。「親として妻の分も生きる」

 景勝地・高田松原では浜辺にあった数万本の松のうち1本だけが残った。市はこれをイラスト化した「高田松原の希望」というワッペンを作った。「生き残った一人一人が希望の松になる」。そんな市長メッセージを込めた。(藤原保雄)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110410/dst11041021020042-n1.htm

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トップインタビュー【25】戸羽太・岩手県陸前高田市長

◇震災からあっという間の1年

 東日本大震災大津波で市中心部が壊滅的な被害を受け、1700人以上の犠牲者を出した陸前高田市(2万1000人)。市庁舎も全壊し、現在は仮設庁舎で業務が行われている。最愛の妻を亡くしながらも市のために先頭に立って取り組んできた戸羽太市長(とば・ふとし=47)に復旧・復興への思いを聞いた。

 ―震災から1年が経過した。1年を振り返って。

 当初どん底からのスタートだったが、あっという間の1年だった。もう少し進めるかなと思ったがなかなか思うようにいかなかった。一方で日本中、世界中の皆さんが応援してくれて、われわれも乗り越えられた。今は被災者の「頑張ろう」の気持ちをどう継続させていくか。復興の鎚音(つちおと)がしている、目に見える形で何かを示すことが大事だと思う。

 ―復旧・復興への取り組みの中での教訓は。

 復興計画は地方分権の考え方で市で策定した。市は15メートルの防潮堤を想定しその中で街づくりの計画を立てていたが、結局県側から12.5メートルを提示され修正することになった。国、県そして市が一堂に会して意見を言い合う会議の場がなかった。3者の連携がとれなかったことがスピード感が出なかった一番大きな問題だ。

 ―2012年度当初予算が660億円と過去最高。最優先で取り組みたい事業は。

 まずは災害公営住宅の建設だ。土地を造成する必要があり時間がかかる事業だ。また仮設住宅があるために校庭が使えない状況をできるだけ早く解消したい。復興計画は8年間だが、すでに1年が経過した。過去1年間を振り返れば、残り7年では目指す3割ほどしか進まないだろう。復興元年のこの1年間でどれくらい進めるかが今後の計画全体のバロメーターになる。市民が復興を肌で感じられるようにしたい。

 ―がれきの広域処理が進んでいない。

 妊婦の方や子どものいる方に不安があるのは当然だが、厳しい安全基準でも「安全」とされるがれきは引き受けてほしい。日本全国では地域によっては被災地のがれきよりも高い放射線量の場所もあるのに、受け入れる側がその地域の放射線量を分からないでいる。互いに情報をオープンにすればいい。またがれき受け入れのための現地調査にかかる費用は国が出して当然ではないか。

 ―市民の交通手段だったJR大船渡線も不通状態が続く。JR側が提示しているバス高速輸送システム(BRT)をどう考えるか。

 鉄道ができるのかできないのか、鉄路の場所によって街づくりの計画が変わってくるのであまり引きずれない問題だ。鉄道の駅名が消えることは街にとっても大きい。被災したことで陸前高田は有名になったが、それを持続させるためには特徴ある街づくりと合わせて最低限の交通手段インフラが必要だ。BRTは暫定的な措置とし、最後は鉄道に戻すと約束してほしい。

 ―国に求めることは。

 ずっと求めていることが「被災者の立場に立って物事を考えて」ということ。国の役人や政治家が何かの基準を決めるのはそこだと思う。自分が被災し家を無くしたという立場に立てば優先順位や求めるものが分かるはずだ。復興庁にはそのようなスタンスを取ってほしい。

 ―どのような陸前高田市にしたいか。

 根本にあるのは「世界に誇れる美しいまちの創造」。景観だけでなく住んでいる人の気持ちが美しく優しい、障害のある方も高齢者も安心して住める、ノーマライゼーションという言葉が必要ないような、どんな人に対しても平等にできる街にできたら魅力だと思う。
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20120330top_interview24_25
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陸前高田市長/戸羽太さん■■■

2011年4月25日

大震災の町から

 「彼だって」と、横に立つ市職員に目をやる。

 「6歳の息子さんが、1カ月たった今も行方不明なんです。職員も大勢亡くなったんです。そういう時に、自分のことをどうこう言っていられないでしょ」

 岩手県の陸前高田市。海があって、川があって、山があった。農林漁業の町だった。湾に面した平地に中心街が広がっていた。約2キロの砂浜にあった7万本の松林は、名勝地として国の指定を受けていた。

 3月11日。大津波が、すべてをさらった。

 妻の久美さんも、行方がわからなくなった。

 私心と悲しみを押し殺し、職務を全うする市長。ヒロイックな見られ方に、違和感があった。

 「私は市長だからそういうふうに言われますが、みんな、家族を亡くしているんです。それでも、頑張っているんです」

 道を行く一人一人に物語があった。町に立つ一軒一軒に思い出があった。同じく失った者として、傷は痛いほどわかる。彼らを支え、背中を押すのは誰か。考えるまでもなかった。

□■□

 松田町にある母方の祖母の家で生まれ、東京都町田市で育った。週末は小田急線のロマンスカーに乗り、「おばあちゃんち」に行った。親戚に連れられ、酒匂川でアユを釣った。

 陸前高田市は、岩手県議だった父の故・一男さんの故郷だった。同市の民間企業を経て、1995年に市議に初当選。3期連続で務めた後、副市長に選任され、前市長の後継者として今年、市長選に立った。

 小沢一郎氏の地元、民主王国の岩手。小沢氏が推す候補に対し、自民・共産の応援を受けて一騎打ちに臨んだ。投票率が80%を超す熱戦に、約千票差で競り勝った。46歳。描いた壮大な青写真は、愛する町の海と空の鮮やかさだった。

 当選は2月6日。

 そして、33日後。

□■□

 その時、市長室にいた。市庁舎の3階屋上に避難した。足元まで迫る津波に恐怖しながら、巨大な濁流にのまれる町を見ていた。

 助かった職員と一夜を過ごした翌日。集まる情報は、あまりに残酷だった。

 1カ月が経過した11日現在で、死者は1233人、行方不明者は1209人。約2万3千人の人口のうち、1割以上が犠牲になったと思われる。

 避難所に逃げ、流された人も多かった。「想定外」との文脈で繰り返される釈明には意味を感じない。

 「災害は基本的に想定してはいけないものなのだなと。具体的な想定をしすぎると、それが頭にインプットされてしまう。常に最悪の最悪という事態を考えていかないといけない」

 三陸の沿岸部には、「津波てんでんこ」という言い伝えがある。「津波が来たら(人のことは構わず)ばらばらに逃げろという意味ですが、議会で話すと『無責任だ』と怒られる。でも今回の教訓からいえば、言い伝えは正しかった。他の人を助ける気持ちは大事です。ただ、それで若い人が大勢亡くなった事実もある。何が正しいか、何がベストかは、誰にもわからない」

 地震と津波。その難から逃れることは、沿岸部の「永遠の課題だ」と言う。

□■□
 今月5日。久美さんの遺体が、自宅近くの坂の上で見つかった。「ごめんな」と、泣いた。結局、一度も捜しには行けなかった。

 中学1年と小学5年の2人の息子に、妻の状態を話してはいない。「遺体がね、時間がたつと傷んでいるんです。やっぱりお母さんはお母さんのまま、送り出してあげたいなって」

 父として子を思い、夫として妻を思う。当たり前に続くはずだった日常が、途切れてしまった。

 それでも―。

 「何年かかるかわからない。でも、あそこからよく復活したなと、世界中から拍手してもらえるように頑張りたい。今、子どもたちは海が怖いと思うけど、いつかはまた好きになってほしい。ここは、本当にいいところですから」

◆陸前高田市の被災状況 大津波により町の中心部が壊滅的な被害を受けた。一部4階建ての市役所も3階部分まで漬かって機能不全となり、多数の人が死亡・不明となった。10軒あったガソリンスタンドもすべて流された。被災家屋は3600戸、被災人数は人口の約半数の1万547人に及ぶ(11日現在)。

◆とば・ふとし 今年2月の岩手県陸前高田市長選に出馬。東北地方で最も若い市長として当選し、1カ月あまりで東日本大震災を被災。自身の妻も行方不明となる中、公務にあたった。母の実家である松田町で生まれた。現在も親族が神奈川に住む。東京都・町田高卒。46歳。

http://news.kanaloco.jp/serial/article/1104180001/
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戸羽太氏講演録:http://blogs.yahoo.co.jp/sakuratribune/36608035.html



http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4847065220/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392

【目次】
第1章 あの日、陸前高田市が消えた―ドキュメント3・11 地震、そして津波はいかにして襲ってきたのか?(床が落ちるほどの激しい揺れ襲いくる大津波、決死の屋上避難 ほか)
第2章 被災地が直面した日々―悲しみを乗り越えて 3・11以後の困難な道のり(これが本当の被災地での日々失われた市役所の機能とデータ ほか)
第3章 「ふるさと」は必ずよみがえる!―陸前高田発、ゼロから始める復興プラン(これから作る「新しい陸前高田」これからは「減災」を考えていくべき ほか)
第4章 特別対談 佐藤正久×戸羽太―「被災地を救うリーダー論」(自衛隊も感銘を受けた戸羽市長のリーダーシップ霞ヶ関や永田町と被災地の「埋められぬ距離」 ほか)


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