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日々の記録をば。
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【東北を離れて 岐阜で暮らした2年】(5)新たに窯場再起の炎---------------------
2013年 3月 9日
避難者交流会に参加した吉田さん一家。「自分一人なら戻りたい。でも子育ての環境をつくっていかないとね」と敏八さんは話した=2月24日、海津市内
阿武隈山系のなだらかな南向き斜面で、竹炭を焼いて暮らしていた。半世紀以上住み続けた山里を、まさかこんな形で出ることになるとは―。
福島県田村市の吉田敏八さん(55)は、福島第1原発事故で故郷を離れ、高山市の雇用促進住宅で避難生活を続けてきた。
窯場を併設した自宅は、田村市東端の都路地区にある。標高500メートル。春は山菜やタケノコが採れ、夏はイワナやヤマメを求めて釣り人が上がってきた。秋はナラやクヌギが色づいた。
神戸市から13年前に嫁いだ妻の優生さん(44)は夜空を見上げ、「プラネタリウムのよう」と驚いたという。8歳から12歳まで3人の子どもと共に、自然の中で生きてきた。
もともと、同地区は昭和30年代まで炭焼きが盛んだった。25年前、有機農法の資材にしようと隣接する双葉郡からモウソウチクを仕入れ、竹炭や竹酢液を作った。ブームに乗って一時は15人近い従業員を雇ったこともある。
ところが、2011年の福島第1原発の事故で、状況は一変する。自宅は原発の23キロ西。3月11日のうちに郡山市に避難し、さらに福井、兵庫、山形と転々として、9月になって高山市にたどり着いた。
自宅周辺の緊急時避難準備区域は解除され、戻った人たちもいるが、小さな子どものいる世帯はほとんどいない。月に1、2回、帰るたびに思う。
「見てもらえれば分かるが、風景は何も変わっていない。山は美しいまま。それが、何でここを離れなくちゃいけないのか…」
福島県内の別の業者が木炭の灰の放射線量を測ったところ、高い値が出た。竹も産地の土壌が汚染されており、厳しい結果が出るはずだ。先月中旬、自宅の敷地は除染してもらったが、山林までは手付かず。再開は、いよいよ難しい。
1996年に合併するまでは、都路地区は人口3千人足らずの小さな村だった。1万本の竹筒の明かりを並べる「都路灯まつり」など地域おこしの先頭に立ってきた敏八さんにとって、縁を切れるはずもない。
震災から間もなく2年。来月、吉田さん一家はちょっぴり福島に近い長野県上田市に引っ越し、新たに窯場を設けて再起を図る。
良質の竹と、煙を出しても迷惑を掛けない場所を求めて、飛騨市や恵那市、遠くは佐渡や岡山まで全国で候補地を探してきた結果だ。見えてきたものは、担い手を失い、急速に衰えている日本の中山間地の農業の姿だった。
そしてもう一つ。「あらためて分かった。自分の住んでいた所は、本当にいい所だったんだなって」。思いを胸に、都路地区の再生に関わり続けるつもりだ。
=おわり=
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2011/shinsai/shinsai20130309_1.shtml